名もなきライターのブログ

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映画『ジョーカー』感想。もはや私にはアーサーの苦しみに心を寄せることすらできない

格差と貧困が精神を引き裂いた。

精神が張り裂けて、統合失調症になって狂い、その果に閉鎖病棟にぶち込まれた。

これは映画『ジョーカー』の主人公アーサーのことではない。2012年の私のことである。

 

最近疲れてたっぷり昼寝しすぎており、夕方からぼんやりTwitterをみていると、橘玲先生とテラケイさんの『ジョーカー』の評論が流れてきた。*1 映画はまだ見てなかったけど先に読んでみた。貧困の痛み、格差の苦しみ、誰にも理解されない孤独と、そして妄想…。どんなもんじゃろかと思って、レイトショーでみてきた。

 

結論から言うと、私はもう、橘玲先生がいうところの「上級国民のリベラル」になりつつあるのではないだろうかと感じた。たしかに、アーサーは苦しみ、精神を病み、誰からも愛されない。そればかりか狂気の末に、何人も殺してしまう。

 

冒頭でピエロのアーサーは、悪ガキに看板を奪われ暴行を受ける。それでも無抵抗で、ただひたすら耐えている。徐々に徐々に、水位が上がっていくように、狂気が満ちてゆく。一線を超えたのは、電車で病気を嘲笑された相手を殺してしまったときだ。

 

ただし、アーサーは自分が撃ち殺した相手が「上級国民」だということを、テレビのニュースではじめて知る。ゴッサムシティの中で、アーサーに逆襲の物語が与えられるのである。ここがこう、私にはどうしても理解できないのだ。

 

『ジョーカー』の中で、アーサーは当初、親思いの善良な人として描かれる。しかし町は悪意に満ちており、失意の中年としての姿がこれでもかというほど浮かび上がってくる。わかる、痛みである。私も障害を背負って閉鎖病棟にぶち込まれたときは孤独だった。

 

しかし、私は物語を持たなかった。私の周りでは、実際に多くの“下級国民”が死んでいった。親友も死に、友人はカップルでクビを吊ったのである。その多くが、精神を深く病むと同時に、物語の中に生きていた。

 

私は2012年に統合失調症になり、閉鎖病棟に入った。そして出てきて1年でライターをスタートし、無理しすぎるぐらい無理してきた。そこには、親からの理解、福祉の温情、そして恋人の愛があった。これは、きっと私が女だからだろう。わかりやすく可哀想な弱者、だったからこそ、周囲の同情をかって救われた側面がそこにはあったはずだ。

 

しかしアーサーは恋すら得られない。とにかく、徹底的に爪弾きにされて、もうジョーカーとして再生する他ないのである。

 

この物語にはひとつだけ、おかしいところがある。アーサーが黒人だったら、彼はこのジョーカーとしての再生物語すら与えられなかったのではないか、という痛烈な批判だ。そう、アーサーは白人だからこそ、物語を与えられるー。

 

愛されてすくい上げられるか、それとも物語に死ぬのか。

 

なんだか、妄想と現実が入り混じって、目をそむけたくなるような映画だった。こんな映画、みなければよかった。アーサーに共感する人が世界中に出ていること、そして世界中の上級国民が目をそむけようとしていることは、私もいつのまにか、後者の立場、人を阻害する側、格差を見せつける側に立っていることを痛烈に突きつけられているようであった。

 

*1

https://www.news-postseven.com/archives/20191019_1470412.html

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67821